Mag-log in玉蘭妃様の部屋へ向かう廊下で、私は何度も転びそうになった。
足がもつれる。 息が浅い。 頭の中に、太后様の茶碗の底にあった赤い文字が何度も浮かぶ。『母の茶を疑う子は、もう子ではない』 飲めば毒。 飲まなければ、母を疑う罪。 それが、慈寧太后様の茶だった。 そして玉蘭妃様は言った。 鼠を殺す茶は、もう配られた。 私を殺すなら、私に毒を飲ませればいい。 でも、太后様はそうしない。 私の周りを殺す。 私の言葉を支える人を殺す。 私が見たことを、一緒に証明してくれる人を消す。 その方が、ずっと深く私を殺せる。「鈴花、息を整えろ」 景黎様が横で言った。「無理です」<第二章 第七十九話 白啓が笑いました 白啓の隔離室へ向かう途中、私は何度も手の中の紙を折りそうになって、そのたびに力を抜いた。 死者戸籍の価格表。 若い女、婚姻可能、土地承継可能、科挙資格、兵籍変更可能。 人の名前を、布や薬草や香木と同じように条件ごとに並べ、その横へ銀の額を書いたものだった。 その中には、紅珠の戸籍と思われる「王氏女・土地承継可・若年」という記載があり、値段は銀百両。本人が周記布店で半年働いて家へ送られた金より、死んだことにされた後の名前の方が、はるかに高く売られていた。「鈴花、紙がかわいそう」 隣を歩いていた蘭々が言った。「何がですか」「さっきから握りすぎ。紙に怒っても仕方ないでしょ」「怒っていません」「怒ってるよ。鈴花、本当に怒ってる時だけ口がすごく丁寧になるもん」「いつも丁寧です」「今の『いつも丁寧です』が一番怖い」 私は手元を見ると、確かに紙の端が少し曲がっていたので、仕方なく方玄へ渡した。「持っていてください」「最初から私が持つと言ったでしょう」「白啓に見せるのは私です」「見せるだけなら、私が運んでも同じです」「私が持っていた方が腹が立つので」「それは理由になっていません」「でも分かります」 蘭々が横から頷いた。 方玄は、理解できない人たちに囲まれたという顔で天井を見た。「そもそも、どうして蘭々さんまで同行しているのですか」「白啓が嫌いだから」「理由になっていません」「鈴花一人だと、あのおじいさんにまた嫌なこと言われて黙り込むかもしれないし」「黙り込みません」
第二章 第七十八話 名前は売れる 翌朝、紅珠に「お母さんが来ています」と告げるまで、私は何度も頭の中で言い方を考えていたのだけれど、結局、気の利いた言葉など一つも思いつかなかった。 母親が娘を三年間死んだと思っていたことも、昨日は役人の前で「娘ではない」と嘘をついたことも、その理由が弟を殺すと脅されたからだったことも、銀十両を受け取って生活のために使ったことも、どれか一つだけなら説明できる。しかし、それらが全部同時に存在しているのが人間で、ひとまとめにして「お母さんも仕方がなかったのです」と言えば紅珠を傷つけるし、「あなたを裏切った母親です」と言えば梅春の三年間を削ってしまう。 だから私は、医療房の寝台で朝の薬湯を嫌そうに飲んでいる紅珠へ、余計な飾りを付けずに言った。「紅珠さん。お母さんが、昨夜ここへ来ました」 紅珠の手が止まった。 椀の中で、薄茶色の薬湯が小さく揺れる。「……母さんが?」「はい。柳根村から一人で来ました」「どうして?」「あなたに会うためです」「私のこと、娘じゃないって言ったんですよね」 予想していた。 それでも胸が痛む。「役人には、そう言いました」「じゃあ、何で会いに来るんですか」「それを、お母さん自身から聞きますか」 紅珠はすぐには答えなかった。 薬湯の椀を膝へ置いたまま、唇を引き結んでいる。十四歳の子供らしい顔と、大人を信用しない人間の顔が、同じところにあった。「鈴花さんは、もう聞いたんですか」「聞きました」「じゃあ教えてください」「私から聞くのと、お母さんから聞くのでは違います」「でも、母さんが嘘つくかもしれない」「その時は、私たちが
第二章 第七十七話 死んだ娘の母 紅珠の母・梅春が「その娘は自分の娘ではない」と証言したという報告を、私はその日のうちに紅珠へ伝えることができなかった。 隠しておけば傷つかないと思ったわけではないし、都合の悪いことを黙って守ったつもりになる人間がどれほど相手を苦しめるのかは、明霞姉様や皇后様や母を通して嫌というほど知っている。それでも、周記布店の跡から戻ったばかりの紅珠が、新しい布靴を嬉しそうに脱いで医療房の寝台へ上がり、「母さんに会ったら、この靴を見せてもいいですか。三年前に家を出る時は、弟のお下がりみたいなぼろぼろの草履だったから、きっとびっくりします」と笑った時だけは、喉まで出かかった言葉を飲み込んでしまった。 私はずるい。 たぶん、それでいい。 人間はいつも正しい時刻に正しい言葉を言えるわけではないし、言えなかったことまで記録しておいた方が、後で自分を綺麗な人間だと思い込まずに済む。「鈴花、さっきから紅珠の寝顔ばっかり見てるけど、何か顔についてる?」 医療房の戸口にもたれた蘭々が、声を落として聞いてきた。「ついていません」「じゃあ、言うかどうか悩んでる?」「……はい」「母親のこと」「はい」 蘭々は珍しくすぐには何も言わず、紅珠の寝台から少し離れた椅子へ腰を下ろした。医療房の窓から夕方の光が差し込み、眠っている紅珠の頬を薄く照らしている。まだ十四歳なのに、眉間には小さな皺が残っていた。眠っていても、何かを心配している顔だった。「私だったら、今は言わないかも」 蘭々が言った。 少し意外だった。「蘭々なら、すぐ言うと思いました」「どういう意味?」「思ったことをそのまま言うので」「私だって相手が寝る前に一番嫌な話くらいは考えるよ。たぶん」
第二章 第七十六話 鼠でも紙は齧れます 十二人分の死亡戸籍を机の上へ並べた翌朝、還名房にはいつもの倍ほど人がいるのに、いつもより静かだった。 戸部から派遣された書記が二人、方玄の指示で死亡年月日や出生地を書き写し、白瑛は旧白家網の記録と照合するため別の机で帳面を開き、蘭々は「字ばっかり見てると頭が腐る」と文句を言いながら、そのくせ誰より熱心に紙の端へ顔を近づけている。私は十二人の名前を何度も読み返していたけれど、今のところ分かっているのは、全員が一度正式に死んだことにされ、その後どこかで戸籍番号を再び使われているということだけだった。「これ、本当に十二人だけなんですか」 私が尋ねると、方玄は書き写していた筆を止めずに答えた。「昨日持ち出された閉鎖戸籍が十二件というだけです。同じ処理をされた記録が過去に何件あるかは、戸部が現在調査しています。ただし閉鎖簿は膨大ですから、すべて照合するには時間がかかります」「つまり、誰かが十二件を盗もうとしたおかげで、十二件については気づけた?」 蘭々が言う。「皮肉ですが、そうなります」「だったら、盗んだ人ってちょっと親切じゃない?」「犯罪者を妙な褒め方で評価しないでください」「でも、燃やされてたら分からなかったんでしょ?」「だからこそ、持ち出した理由を調べています。証拠を消すつもりだったのか、別の場所へ移すつもりだったのか、誰かが先に保護しようとしたのか、それすらまだ不明です」「また不明」 蘭々が嫌そうに言った。「昨日から不明ばっかりじゃん」「調査というものは、最初は分からないことを増やす仕事なのです」「普通、減らす仕事じゃないの?」「何が分からないのかを正しく増やさないと、最後まで減りません」「方玄って、難しい言い方するの好きだよね」「あなたが簡
第二章 第七十五話 帳簿の方が人間より偉いそうです 戸部尚書・韓徳元という名を見つけたからといって、すぐにその人を犯人だと決めつけられるほど、世の中は親切にはできていなかった。 むしろ厄介なのは逆で、偉い人間の名前が一枚の書類に書かれているだけでは、何の証拠にもならないことである。戸部尚書ともなれば、本人が一日に目を通す書類だけでも相当な数になるらしく、最終的な承認印を部下が管理することも珍しくないのだと方玄は説明した。つまり、韓徳元本人が紅珠の戸籍を知っていた可能性もあれば、知らないうちに名前だけ使われた可能性もあり、あるいは全部知った上で「私は部下を信じて印を預けていただけです」と言い逃れることもできる。「それって、偉くなるほど自分の名前で何をされても知らなかったって言えるってこと?」 還名房へ戻る途中、蘭々へ事情を話すと、彼女は露骨に嫌そうな顔をした。「そんな便利な話ではありません」 方玄がすぐ訂正する。「官印の管理責任がありますから、勝手に使用されたならそれ自体が問題になります。ただ、印があるというだけで本人が不正を指示した証拠にはならない、と言っているのです」「でも、紅珠を死んだことにした戸籍があって、その死人が結婚して、土地までもらって、その全部を戸部が通してるんでしょ?」「そうです」「じゃあ戸部が悪いじゃん」「戸部という役所全体を一人の人間みたいに扱わないでください」「でも戸部でしょ?」「そういうところです、あなたの悪いところは」「何、その言い方」「そのままの意味です」「方玄って私にだけ厳しくない?」「あなたが私にだけ話を最後まで聞かないからです」「鈴花、方玄がいじめる」「二人とも歩きながら喧嘩しないでください。人に見られます」「もう見られてるよ」
第二章 第七十四話 私の名で生きている娘 紅珠が還名房へ来た翌朝、私はいつもより少し早く目を覚ましたのだけれど、それは体調が良かったからでも、還名房の仕事に慣れて朝が楽しみになったからでもなく、夢の中で何度も同じ赤い文字を見たせいだった。 死亡。 たった二文字である。 けれど、その二文字の下に婚姻登録があり、さらに土地相続の記録まで続いていた。生きている少女を死人にした帳簿が間違っているだけなら、まだ話は簡単だったのかもしれない。間違いを正し、紅珠が紅珠だと証明して、母親のところへ帰す。それで済む。 けれど、死んだはずの紅珠は、その後も生きていた。 正確には、紅珠の名前だけが生き続けていた。 別の誰かの人生として。「鈴花、起きてる?」 仕切りの向こうから蘭々の声がしたので、私は寝台の上で目を閉じたまま答えた。「寝ています」「寝てる人は返事しないよ」「では起きています」「最初からそう言えばいいのに。あと景黎様が来てる」 目が開いた。「どうしてですか」「知らない。朝餉を食べたか聞いてる」「まだ起きたばかりです」「じゃあ食べてないって言っていい?」「駄目です」「でも食べてないじゃん」「蘭々」「はいはい、面倒くさい人が二人いると間に入る私が大変なんだから、喧嘩するなら自分たちでやってね」 どちらが面倒くさい人なのか確認したかったけれど、確認すればたぶん私も景黎様も含まれていると言われるのでやめた。 身支度を整えて外へ出ると、景黎様は本当にいた。 皇弟へ戻った今も、朝早く私のところへ来る時は簡素な濃紺の衣を選ぶことが多い。宦官の黎星として後宮を歩いていた頃とはさすがに違う







